僕が住んでいる所は集合住宅なんですが、その敷地内ですれ違う人と「こんにちは。」などと挨拶をします。
それは義務感でもあり、また社会の窓を叩くようなものでひきこもりの僕の世間との唯一の接点です。
しかし敷地が広いのでどこまでが住人か分からず、取りあえず自分の中で線引きをして、ここから先は人とすれ違っても挨拶をしなくて良いと決めています。
ただ僕が決めた境界線を過ぎてからも、時々、以前挨拶をした住人とすれ違うのでここで挨拶をするべきなのかしないべきかとハムレットのように悩んでしまいます。
減るもんではないし挨拶をすればいいのかも知れませんが、挨拶が返ってこない時は死ぬべきかも知れないと思います。
挨拶を返してくれることを期待してはいけないのだろうけれど、挨拶が返ってこなかったりすると、
「なんだこの人。変な人。こういう人がいるから犯罪が増える」などと思ってしまいます。
なら挨拶をしない方がマイナス要素が少ない。
しかし小学生に挨拶をして「こんにちは!」っと元気良く挨拶が返ってきた時ほど気分がいいことはありません。
僕が小学生の頃、学校でオアシス運動なるものがありました。オはおはよう。アはありがとう。シは失礼します、スはすみません。
先生がカードを持っていて挨拶をする、例えばおはようと言うとオのカードをもらえる。ありがとうと返すとアのカードがもらえます。
シがなかなか集まらないので用もないのに職員室にいったりしました。
僕はなぜかスのカードばかり多く持っていました。
アだけが集まらない時は、先生と会うたびに「ありがとう!ありがとう!」と意味もなく連発していました。
オアシスのカードを全て集めて賞品や賞状などがもらえる訳ではないのだけれど、目上の人や先生に褒めらると気分がいいものです。
子供はカードが好きなのかみんなこぞってカードを集めていました。
いつしか挨拶とは人にするものではなく自分のためにすることへと変わっていきました。
ただオアシス運動を学校でしているのにも関わらず何人か変わった先生がいまして。挨拶をしているのに無視をする先生がいたんです。
その先生は無視をしてカードもくれないので、挨拶をしてくれない先生にはオはお前殺す、アはアホ、シは死んでくれなどという言葉に変わっていきました。
そのような先生に「死ね」という言葉を浴びせるのは挨拶が返ってこない時の「おはよう」よりも気分がいいものでした。
だけど挨拶以外は先生には聞こえるようで注意します。
「お前人に死ねって言っちゃいけない」
「すみません。先生おはよう。失礼かも知れないけどオとスのカードください。ということはシのカードも。」
カードを貰うと「ありがとう。アのカードも。」
そしてオアシス運動はなくなりました。
目頭2:50分。
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僕がボロボロの財布を使っているからと、僕の30歳の誕生日に両親から、黒い革の財布を貰った。
でもなんだか新しい財布に変えられずにいた。
僕が今使っている財布は20年前、10歳の時から使っている。小銭を入れる場所には穴が開き小銭は入れられない。
かといって貯まるのは小銭ばかりだ。ペットボトルに一杯の小銭が貯まっている。
一番高いからと選んだ黒い革の財布をデパートで買ってもらった。10歳なのに「お会計はカードで」と言うみたいなもんだ。
時代はバブル絶頂期で僕の家も今で言うセレブのような状態だった。欲しいものはなんでも買ってもらえた。
しかしその後、景気が悪くなり家もお金に困り借金まみれになり、一家離散…。そしてもう死のうかと…。
なんてこともなく借金まみれになったのだが、貧乏というのを感じることが無く過ごすことができた。これは僕のお陰か家族のお陰か。
今、この財布の中には南野陽子のテレホンカードやWINKのテレホンカード、初めて女の子とデートした時に見に行った映画の半券と喫茶店のレシートが入っている。
もちろんETさんと初めて会った時に食べたお店のレシートも入っている。僕が払ったのか。そうだ半分、返して貰おう。
このボロボロの財布は僕と一緒に歩いてきた。地獄の沙汰も金次第というけれど、財布にお金が入っていなくてもこの財布を持っているとなんだか安心できた。
実家から出てこの家にETさんと住む時に、自分の物で持ってきたものはこのボロボロの財布しかない。あ、ウソだ。トレーナーも持ってきた。
父の景気が良かった頃に買ってもらったもので、残っているものはこの財布しかない。大事に使ったわけでもないが残っているのは財布だけだった。
先日死んだじいちゃんの葬式でじいちゃんが焼かれる時に、自分の父の背中を見ていたら、ふと父が死んだらこのボロボロの財布をお棺に入れて一緒に焼こうと思った。
ボロボロの財布が持つか父が持つかという楽しみもある。
しかしこのボロボロの黒い革の財布をじいちゃんのお葬式の帰りに落とした。
ここで終われば不思議な話だが、一日後に見つかった。
実を言うと無くしてほっとしていた。これで新しい財布に代えられると。でも戻ってきた。たが今こそ新しい財布に代えるべきなのかも知れない。
あーどもーごぶさたりんこしています。あ、いや間違えた。ごむぶさたごぶりんしています。残念三組な書き出しで始めましたがもう30歳なのにこんな日記の書き出しはいかがなものかと。しかも文章噛んでるし。または誤字ともいうが。
このサイトを始めたのが20代前半戦だったのが今は30歳。唯一分かったことは人は成長しませんね〜。あ、僕だけが成長していないのか。
という訳で話はチベット方面に飛びますが、最近になってあいぽっどをポット買ってみたんです。音楽を聴くためじゃなくってナイキぷらすとかいう器具をあいぽっどにつけるとジョギングで走った距離が分かるとか分からないと知ったかぶるとかいうものです。
だからどうしたという話なんですが広げますよ。たかがあいぽっどで広げますよ。時代はワイドです。デジタルワイドです。今更ながらすげぇ〜あいぽっどと思ったんです。
あいぽっどのどこが凄いかって言うとあいぽっどよりも周辺機器の方が値段が高い。それなりのイヤホンとかケースとかね。なんであんなに高いのかって。
ブサイクな女の子とデートして「わたしフランス料理しか食べないの」なんかそんな感じですよ。お前はコロッケ食えっていう。
この比喩はイマイチだな。反省。
という訳でなんの話でしたか?まあなんの話でもいいんですよ。とにかく言いたいことはこれぐらい工藤静香さん並にあるんですよ。これぐらいね。ちょっちね。
最近ね。またDSの良さに気付きましたね。どこでもどんな態勢でもゲームが出来ると言うのはいいですね。ときめきメモリアルなんていう知っている人は知っているゲームとかやちゃって。持ってませんけど。想像でプレイしています。
もうね。最近はいろんな意味で「おたくってオタクですか?」って質問されるぐらいオタクまっしっぐらでお先真っ暗です。なんかETさんが給料が下がったとへこんでいましたがそんな時にはゲームですよ。ゲーム。
そんなこんなんで僕のお小遣いが大幅に減りました。ゲーム買えません。毎日パスタに納豆かき混ぜて食べていて食費を浮かしているのにゲーム買えません。その代わりトイレを快適にします。自動で洗ってくれるやつ。なんだかお金の使い方を間違っている気もします。
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上の呪文のような日記にも書きましたがアイポッドを買いました。今更な感じですがホイールを堪能しています。しかし昔の人間のせいかホイールを上手く使いこなせません。
音量を調節する時、ホイールを親指で上に擦った後、どうしてもまた下にホイール擦っちゃうんですよ。ということは音量がいっこうに上がらない。
親指を上下にいったりきたり。おまじないしているみたいになっています。まあ祈ることは多々ありますが。僕以外の人が幸せになってほしいとか。
僕はnike+ipodを使うために買ったので総じて満足しています。手軽に走った距離が分かるのは楽しいですよ。
一週間に60キロ程度走っています。自分のことを結構走っているなぁ〜と思っていたのですがnike+のサイトを見ると週に300キロ走っている方もおられるようです。
車か!
お久しぶりの更新ですが昨日、23時30分…。正確には何分か忘れましたが祖父が死にました。ばあちゃんが手術したのはこの前で、2週間前に退院しましたが、じいさんは手術することもなく、脳出血と脳挫傷を併発しあっというまに逝きました。
マキエ(祖母)の3週間前の手術の時に、先に逝くなよと励ましていたじいさんが上手い具合に先に逝きました。
じいさんといえば、自由に生きた人でこういう生き方の人は本の世界、いや落語でもあまりお目にかかれないような人でした。
こんな団体
【LINK】を作ったりしていました。
酒の害を訴えていますが、反面教師とでも言っておきましょうか。毎日浴びるようにお酒を飲んでいたのはこのじいさんです。言っていることをやっていることが違い過ぎます。
しかし何かと憎めない人でした。日本一の無責任男こと植木等さんがこの前、亡くなりましたが本物の無責任男とは松田暢でした。
じいさんは自分の誕生日の30分前に亡くなり、今頃生まれ変わっていることでしょうか。今度はまともな人間に生まれ変わって欲しいものです。
青山霊園に入るようなのでお近くの方は著名人の墓参りのついでにキリスト教なので十字架ですが十字架にハズレ馬券でも供えてやってください。