2002/1/7 おじいちゃんとおばあちゃんの恋。

僕はおばあちゃん子で。おばあちゃんとよく話すんですが。最近には珍しい心優しいお孫さんです。大泉一郎さんも僕の歌を作るべきです。「孫」という曲もたぶん僕のことを少し歌っているので印税の一部をください。

競馬を早めに切り上げ帰宅。今日も話していました(本当は凍え死ぬかと思ったから)毎度同じおばあちゃんの昔話は100回は聞いています。嘘か本当か分かりませんがおじいちゃんが箱根駅伝に出ているとのことです。

青山学院で19歳の時らしいのですが。おばあちゃんと出会う前だったので誰もその真相は分かりません。けどおばあちゃんが楽しそうに話しているのを聞いて、何だかいいな〜と思うのです。

戦争中だったために東京の大学に行っていたおばあちゃん19歳は、実家がある長野県の大町に戻ってきていました。そこにおじいちゃんが疎開。疎開して来たとは名ばかりで、戦争に行きたくなかったらしいのです。

そこでおばあちゃんに恋を…。恋とは名ばかりで?おばあちゃんを妊娠させてしまったのが始まりでした。その後東京の大学を卒業。その後もおじいちゃんは5年ほど長野の大町に転がりこんで住んでいたらしいです。

田舎ですから、箱根駅伝に出たという噂はたちまち広まり。おじいちゃんは町で主催するマラソン大会に出場することになりました。

「青学で箱根駅伝に出た人だって。」町でも一位は確実だろうと言われていました。その頃でも箱根駅伝のネームバリューはかなりあったらしいです。

若い頃のおばあちゃんも、またおばあちゃんの親戚一同もみんなゴールで待っていました。一位で帰ってくるのは当然だと思い。

しかしおじいちゃんは待てど暮らせどゴールの場所には現れませんでした。

「用水路にでも落ちたかね〜。」

皆が心配して家についたらそこに、右手に鉄砲を持って左手にキジを持ったおじいちゃんが立っていました。

走って5キロぐらいして自分より早い人がいて、一位になれないことに腹を立てレースを棄権して猟に出かけたらしいのです。

そんなことをおばあちゃんは嬉しそうに、懐かしそうに僕に話しました。

おじいちゃんとおばあちゃんは離婚しています。それはおじいちゃんが他の女の人を妊娠させてしまったからです。


2003/1/2 おじいちゃんとおばあちゃんの恋(2)


今年一番最初のスポーツイベント箱根駅伝。祖父は第22回箱根駅伝【LINK】に出場しています。

祖父からそれを聞いたとき、祖父は嘘の塊みたいな人間なので、また嘘を言ったと親戚一同誰も信じていなかったんです。

今年の11月。僕がインターネットで調べ物をしていた所、どこかで見とことのある名前を発見。まさかな〜と思って、さらに調べた所、残念ながらそれは祖父でした。

今は死に掛けの祖父に昔の箱根駅伝の話しを聞く機会がありました。第22回といえば昭和19年。祖父は青山大学の2区を走っています。同じ大学で4区を走った選手は、オリンピックに出ているとのことです。

復路になると一位のチームが午前7時にスタート。その頃は繰り上げスタートというのがなく、最下位のチームは午後12時にスタートするなんてこともあった。

そんなスタート時間なんで、最下位のチームがゴールする時間は夜の9時を周っていたことも。辺りは真っ暗。今では考えられませんが、選手が自らたいまつを持って走ったということです。

伴走車も自動車なんてなくって、自転車だった。坂になると伴走車の自転車の方が辛くなって下がっていき後ろから「頑張れよ〜!」

そんな時代を経て今のちゃんとした箱根駅伝がある。

しかしその頃から箱根駅伝というネームバリューは高く。こんな話しがあって。

祖父が23歳の時。昭和23年に祖父は祖母の田舎の長野県であったマラソン大会に出ました。

「箱根駅伝に出た人だって。」田舎でもたちまち噂は広がり町でも一位は確実だろうと。祖母も祖母の母も、親戚一同みんなゴールで待っていた。一位で帰ってくるのは当然だと思い…。

しかし待てど暮らせど祖父はゴールには現れませんでした。皆が何かあったのか「用水路にでも落ちたかね〜」と心配して家に帰ったところ、右手に鉄砲を持ち左手にキジを持ったおじいちゃんが笑顔で立っていました。

走って5キロほどして自分よりも早い人がいて、一位になれないことに腹を立てレースを棄権してキジ猟に出かけていた。

そんな話しがあったんで誰も箱根駅伝に出ているなんて信じていなかったんです。

第22回箱根駅伝の出走表をプリントアウトして持って行った所、

「な!俺もたまには本当のことを言うだろ?」

たまにはって。

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