夏になるとあのピアノの音が聞こえた。とても繊細で女性らしい音色。
初めてそのピアノの音は聞いたのは小学5年生の夏。誰が弾いているのか気になって教室を覗いた。
髪が長く肌の色が白い女の子がピアノを弾いている。僕は椅子に座り口を開けて聞き入っていた。
「起きないと。教室閉まるよ。」
声がして目をあけるとピアノを弾いていた彼女に揺すって起こされた。どうやら寝てしまったらしい。繊細で長い指が印象に残った。
次の回からピアノ教室に行くと彼女がいて話をした。オランダ人と日本人のハーフで、夏休みの間だけ日本に帰ってくる。同じ年。そして女なのに僕と言っているちょっと訛った日本語。
日本より長い夏休みが終わるとオランダに帰って行った。
翌年の夏にもそのピアノの音が聞こえた。「覚えてる?」と僕は声をかけた。
「元気にしてた?」
ちょっと訛った日本語も変わらなかった。相変わらずの白い肌に長い髪。そして長い指。
彼女が奏でるピアノの繊細で女性らしい音色を聞くたびに天才だなと思った。彼女に好きというのとはまた別の感情を抱いた。
彼女とは中学2年の夏まで会っていたが、翌年の中学3年の夏はそのピアノの音は聞こえなかった。
次の年もまた次の年も…。
ハタチの夏。
あのピアノの音が教室から聞こえた。一部の隙もない。しかし甘い音。僕は教室のドアを勇んであけた。
「おぼえて…。」
何かが違う。髪が短い。
ピアノを弾いていた男が振り向いた。
「元気にしてた?」
相変わらずの白い肌に長い指。そして訛った日本語。でも顔には産毛のようなヒゲが生えていた。
長い間会っていなかったんだ。きっと性同一性障害なんだ。ジェンダーとかいうやつなんだ。そういえばスカートを履いている姿を見たことがない。女が男になったということは、彼女をいや彼とどういうふうに接すればいいんだろ。
「おお元気だぜぇ!そっちはどうだ!」
僕は声を低くして応えた。
「どうしたの?風邪を引いてるの?」
「ああちょっと喉がね。」
どうしてそうなったのとは彼女、いや彼の傷口に触れるようで聞くに聞けない。
身長も185cmぐらいあり、薄いが髭が生えている。男性ホルモンを打っているのだろう。
思春期に人は大きく変わるもの。彼に何があったのか知らないけどそれを黙って受け止めるのが男ってものじゃないか。
しかし僕はその場にいられなくなり「トイレに行ってくる。」「あ、僕も行くよ。」え!まさか男便所に一緒に入るんじゃ。
後ろからついてくる彼女。いや彼。トイレまでの道のり。僕は入ってくるなよと心で唱えて男便所に入った。
彼女も一緒に入ってきた。やばい。やられる。僕はそういう種族じゃない。いや違う。もともと女じゃないか。そう思うと不覚にも下半身が熱くなった。駄目だ。駄目。冷静になるんだ。彼女は今は男なんだ。
悪い夢を見ているんだ。きっとそうだ。
でも体は女だ。立ってはできないはずだ…。え!?し・て・い・る・・・・・。
僕はあまりの衝撃に全身が縮み上がり小便がでないままトイレを出た。
彼女は最初から男だった。ついているものがついていた。僕が勝手に見た目が女性に見えたというだけで女性だ、そう思い込んでいただけだった。
男に恋愛感情を抱くことがあってもいい。ただもし彼女、いや彼の性別が最初から女だったら恋愛感情を抱いていたかも知れないなと僕は思った。「助かった」そんな言葉が頭に過った。
人が人に好きという感情を抱くときなにを好きになるのだろうか?見た目?直感?その行為、感情は性別を超えるのだろうか?
そんなことをトイレから戻り教室で考えていると、茶髪が綺麗な先生がピアノを弾き始めた。
スカートが短いためにペダルを踏むたびに、太ももが露になる。僕は席を立ち先生の背中に周ってみる。白いブラウスには汗が滲みその下にはブラジャーの線が浮き上がっていた。僕は唾液がたまった。
そしてなぜか心の中でガッツポーズをした。
やっぱり僕は女性が好きだ。いや、突き詰めるとその先生の太ももとブラジャーの線が好きなだけかも知れない。
次に聞いたとき、僕が今まで彼女だと思い込んでいた彼の弾くピアノの音は今までより力強く聞こえ、夏になると聞こえたあのピアノの音はもう二度と聞こえなかった。